2020.04.05 Sunday

昔の日本バレエに思いを馳せて

 

4月1日はあいにくの天気で、窓ガラス越しに観る駒沢病院の庭の

桜も雨に打たれてピンク色に煙っていた。

 

 

この日の診察を最後に、あたしは通院を卒業した。整形外科とリハ

ビリ科には大変にお世話になった。今後は自己責任で、より良くな

るように体を動かし続けて行く。右足が元の感覚を取り戻すのにあ

と半年はかかるだろう。「踊れるようになるよ」と主治医のS先生が

おっしゃった。「今までは爪先で立つ靴を履いてたんでしょ? あ

れだって、椅子に坐って踵を上げ下げするのから始めてみれば?」

と担当理学療法士のTさんが励ましてくださった。うーん、それは

どうなんだろう。

 

先月のいつだったかの通院リハビリで、元バレリーナの方にお会い

した。仮にFさんとしておこう。80を超えているとおっしゃってい

た。長年バレエをやっていた人によくある、無駄肉が一切なく、薄

い筋肉が骨に張り付いて、きりりと痩せた体つきをしていた。あた

しが長椅子に座り、両足首に錘をつけて脚の上げ下げをしている横

で、Fさんは上体を前に曲げて両手指先を床に近づけながら、ご自分

の理学療法士さんと話していた。「バレエはやっぱり『ジゼル』が

一番ね。谷桃子さんのジゼルを観て、すぐに谷バレエ団に入ったのよ」

 

それを耳にしてFさんと話がしたくなり、あたしはずっとタイミング

をうかがっていた。ちょうど二人揃ってその日のメニューを終え、

リハビリ室の出口で一緒になったので、声をかけてみた。「バレエ

をなさってたのですか? あたしもです」

 

Fに下り、会計に呼ばれるまで待合の椅子に坐ってお喋りを続けた。

「あたしはアキレス腱断裂です。おさらい会で踊るヴァリエーション

のリハーサルでやっちゃいました。お宅様は?」「私はとっくの昔に

バレエは辞めて、フラメンコなんだけど、レッスンでダーッと前滑り

に転んで腕を痛めたの。診察の結果、足の土踏まずが落ちていると言

われた。それで転びやすくなってたのよ。あなたはアキレス腱? コ

バチャンと同じね。コバチャンは本番中に切って、手術したのよ。で

もあの人、一ヵ月後にはもう踊ってたわよ」

 

コバチャンというのは、谷桃子バレエ団で桃子先生(19212015)の

パートナーをつとめ、1970年にご自身主宰のバレエ団を設立した小林

恭氏(2014年没、享年83歳)のことだ。NBAバレエ団芸術監督・久保

綋一氏の父上で、昔の日本のバレエ界をよく知る久保栄治氏が、小林

先生は本当に天才でした。男性ダンサーにとって、真横になって2回転

する小林先生のザンデール(名付けて「コバQ」)は憧れで、私も練習

しましたが、肩を脱臼してしまいました」と語っている。優れた演出家

でもあり、既存のバレエ作品を独自の解釈を入れて深いドラマ性のある

作品に仕立てる才能のある人だったとの定評がある。

 

Fさんは少女の頃、戦後間もない1946年、帝国劇場で初めて日本で全幕

上演された『白鳥の湖』を観て乙女心を揺さぶられ、ジークフリードを

踊った小牧正英氏(19112006)のバレエ研修所に入ったが、谷桃子さ

の『ジゼル』を観て感動して谷桃子バレエ団に入団したという。そこ

コバチャンもいたのだった。

 

Fさんが小牧正英氏までご存じだったというのは晴天の霹靂だった。あ

たしの研究課題の一人なのだ。小牧氏は戦前に大陸に渡り、上海巡業に

来ていたバレエ・リュスに入団して踊り続けた人で、当時、真の意味で

西洋バレエを身に付け理解していた最初の日本人だったのだ。『白鳥の

湖』上演を実現させたのも小牧氏だった。

 

「あの時のオデット/オディールは貝谷八百子さん(19211991)でした

ね」とあたしが訊くと、「そうよ。あら、そういえば貝谷さんもアキレ

ス腱を切ったのよ。それから踊らなくなったわね、トウシューズを履け

ないから。男性はトウシューズ関係ないから復帰しやすいわね」とFさ

んが言った。ほらね、やっぱり、アキレス腱断裂するとトウシューズは

難しいのだ。

 

貝谷八百子さんは日本人離れした肢体の持ち主で、写真で観るその姿は

とても舞台映えする。その貝谷さんもアキレス腱を切っていたのか……。

牧阿佐美先生も20代で切った。久保綋一氏の母上も切った。踊る人は確

率が高い。でも切らない人もいる。まぁ、その人の運命だ。

 

Fさんともっとお話ししたかったので「お茶でもいたしませんか?」と

お誘いしたが、「もう今日は疲れたわ。お茶はなし」と断られてしまっ

た。以来、リハビリでお会いすることがなく、あたしは通院を終えた。

残念だ。小牧正英氏のこと、22日間公演を続けて空前の観客動員数を記

録した帝劇の『白鳥の湖』のこと、もっと伺いたかった。もうお会いす

ることはないだろう。

 

いつの日か、Fさんの土踏まずは上がるだろうか? あたしの右足は再

びトウシューズで立つことができるようになるだろうか?

 

 


2020.05.18 Monday

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